この本は、昭和42年2月15日道青協創立20周年を記念して発刊されたものです。40年以上前のものになりますが、青年団の成り立ちや、目的などが書いてあって、面白かったので掲載してみました。一部表記が古いものがありますが、基本的に原文のままのまま掲載しています。
(2010/1/22 171ページ中15ページまでupしました)
(2010/2/24 16ページ〜24ページupしました)

はじめのことば 北海道青年団体協議会 会長 河野順吉

風雪百年の輝かしい年に、北海道青年団体協議会も創立してから20年の年輪を数えるに至りました。郷土北海道における青年団のあゆみは、北海道開拓の歴史とともに発展を続けてきましたが、私たちの多くの先輩は、青年団の運動を通じて自らの人間形成に励むとともに、町づくり村づくりの先頭に立ち本道発展の一翼を担ってきました。

第二次世界大戦後の混迷廃退の世情の中で、郷土北海道の復興を目指して再び集いあい、新しい民主日本の建設にふさわしい活動を、粘り強く続けて今日に至りました。

今や急激な社会の変化に伴い、青年団運動は一つの転機を迎えていると言われます。

この時にあたり北海道青年団体協議会は農漁村における後継者づくり、都市における仲間作りのために会員一人一人が不屈の開拓者魂に徹し、北海道を気づいた先人の開拓者精神を心として、北海道の第二世紀を築くためにも、我々の活動を通じて郷土社会建設に努めなければなりません。

道青協20年を迎えて、諸先輩の労苦と北海道の青年団運動の歴史を顧みながら、今後の青年団のビジョンを求めて活動の手引きである本書を発行することになりました。

多くの皆さんから愛読され、活動の資料としても広く利用されることを望みます。

ここで改めて、今日まで力強いご指導ご援助をいただいた各関係機関の諸先生や先輩各位に厚く御礼を申し上げるとともに、今後共よりいっそうのご支援をお願い申し上げ、発刊の言葉といたします。

激励の言葉 北海道知事 町村金五

北海道青年団体協議会が結成されて、ここに記念すべき20周年を迎えますことを心からお祝い申し上げます。

本協議会は、結成以来、青年自らの人格の陶冶と相互の連携強化、社会への奉仕などの多彩な目標の元に、幾多の試練に耐えながら、強固な団結とたくましい行動力を持って、常に本道青少年団体の中核として成長してこられましたことは、まことに喜びに耐えません。

最近における科学技術の著しい進歩は、我が国の産業構造に大きな変化をもたらし、これに伴って農漁村青少年の都市への流動など、青年団活動にとっても、新たなしかも極めて重大な問題を投げ掛けております。すなわち、農漁村にあっては中堅後継者の養成、都市にあっては勤労青年の健全は組織の育成など、新しい困難な課題が起きているのであります。

本年は、北海道百年という記念すべきとしてあります。我々は、過去百年に渡る先人の労苦の跡を偲び、深い感謝の意を捧げるとともに、先人の築かれた基礎の上に立って、本道の風土に適合した偉大な産業や文化を創造し、建設するための決意を新たにしなければなりません。

昨年、全道青少年の手によって「北海道青少年憲章」が制定されましたが、みなさんは、この憲章の本義を体して、それぞれの職域において、本道の輝く未来の建設に、たくましく前進されることを熱望して、ごあいさつといたします。

思索的人間たれ北海道議会議長 岩本政一

青年諸君!君たちは今青春の真っ只中にある。無限に開きえる可能性の世界を有する。この時期は、個人としてはもちろん社会的にも極めて重大な時期である。この青春時代というのは、春というよりはむしろ颱風のシーズンである。盛んな知性と感情とは、夢を描き、希望を持ってその実現を求めるが矛盾多い現実社会の厚い壁に阻まれて、希望と幻滅と懐疑と苦悩が反復されるのである。

この反復の過程は人生の煉獄でもあるが、これをいかに通過するかが、その後の人生に極めて大きな影響を残すのである。

『生活なき思索は空虚である。』『思索なき生活は盲目である。』という。生活と思索、両々相俟ってこそ、人格の陶冶が期されるのであるし、また、この両者が社会的行動となって噴出する時にこそ、社会の進歩発展が期されるのである。

ここに、私は、青年諸君に「思索的人間たれ!」と訴える。思索は苦しみつつ進むのが常道である。しかし、すべての思索の苦しみはそれに負けなければ人間的に大きな収穫なのである。思索の結果は、色々あろうが、この結論は、反省され修正されるであろうし、またこの過程こそが、人間としての真の営みの名に価するものなのである。

青春時代は、自分の人間性を主体性を持って塑形し得る二度とない機会である。それを、青春は二度とないことを、自分の享楽の言い訳として使い、人間形成に必要な問題の解答を飛ばしてしまっている群衆の中に埋もれてしまうのは、最も愚かな、もっとも惜しい青春の通り方である。

変転激しい現代を特徴づけるものは、社会的価値基準の喪失であり、世代間の思想の断裂であり、若年層の享楽的傾向等々である、といっても言い過ぎではなかろう。而して、現代のこの好ましくない面を是正し社会をして、したがってまた国家をして、進歩発展に導く推進力たり得るのは誰か。それは青少年を置いては絶対にあり得ないのだ。

我らの郷土北海道は、開拓百年の歴史を経て、今二世紀の大いなる飛躍へ羽ばたかんとしている。青年に期待するところは極めて大きいのだ。道青協の諸君、君たちは現代社会における労働の意味するものを身をもって知っている。君たちに必要なのはおそらく思索のみであろう。どうか諸君、課せられた使命を自覚して明日に向かって努力してください。

重ねて訴える。「思索的人間たれ!」と。

青年団に期待する 北海道教育委員会 教育長 岡村正吉

北海道青年団体協議会が結成されて、ここに20年の歩みを刻むに至りましたことは、ご同慶に耐えないところであります。

終戦とともに、大日本青少年団が解散を余儀なくされ、一時的に仲間との活動を失った青年たちは、混迷した世情と窮乏の生活にもめげず、全く自主的に新しい青年団を生み出したのであります。青年の連帯の輪は、戦後わずか二カ年の間に、単位団から町村団へ、さらに全道的な組織へと発展したのであります。

それから20年、青年団は青年から青年へ受け継がれ、自らの見識を高めるとともに、郷土の発展に貢献し続けてきました。とりわけ、その自主的な活動を通して、互いに磨きあう「ともみがき」とも言うべき人間形成の営みは重要なものであります。青年団が今日までに果たしてきた、人づくりの役割は計り知れないものがあると信じます。

その意味で、青年団の組織作りに奔走した往時の団員の皆さんに対して、あるいは幾多の困難を克服して組織の拡充と活動の充実に努めてきた数多くの青年諸君に対して、改めて深く敬意を表すものであります。

人は生活の流れの上に、様々な区切りを置いて、自己のこれまでを振り返って、これから進むべき道を推し量るものであります。北海道百年も、道青協20年も、その意義はここに見いだすことが出来るのであります。

この20周年を契機として、道青協の活動に新しい局面を開き、開けゆく大地の上に、よりいっそう青年の連携の輪を広げられるよう期待いたします。

青年団の理論と実践    執筆:田村昭敏氏

第1章 北海道の青年団体の歩み

我々の誰もが、歴史の一駒の上に、生命を続けている。きょうの生活は、精神的にも物質的にも、昨日とは無縁ではあり得ない。青年団体の運営についても同じことが言える。

そこで、これまでの青年団体の歩みを振り返って、これからの方向を求める手がかりとしたい。北海道における青年団体の歴史を概観しよう。

1.青年団の生い立ち

日本の青年団体の発生は鎌倉時代に遡ると言われているが、はっきりと記録に残るようになったのは、江戸時代に入ってからのことである。

江戸時代の日本は、徳川幕府の統轄の元に、大小数百の大名が全国を支配していたが、社会の構成は、大名の城下町と、村と呼ばれる農村で成り立っていた。

この頃、武家の青年たちは、合図の白虎隊とか各地の藩校のように、訓練、修業を目的として組織されたものはあったが、自主的な青年団体を作ることは出来なかった。

一方、農村には、若連中、若者組などと呼ばれる青年の団体が結成されていて、今日のように、地方ごとに、あるいは全国的につながりはなかったが、全国に普及していたと言われる。ほぼ、今の大字を単位として組織が持たれ、15歳になると「若物入(入団)」した。「若物入り」は、武家社会において成人を祝う儀式として行われた「元服」(15歳)と同じ意味があった。今の成人式にあたる。青年は30歳前後まで在団するが、3~5の段階に分かれ、段階ごとに小若衆、中老、宿老、世話人という呼称がつけられていた。

若連中は、地域において防災、祭礼、奉仕の活動を行なう他、農閑期には、若衆宿、若者宿、泊り宿と名付けられた彼らの合宿所に宿泊しわら仕事に励みながら、よもやま話や娯楽の機会を持ち、親交を深め、また、知識の交換をはかった。

若連中の結成は、名主や庄屋が参加することもあったがたいてい自主的、自然発生的であった。しかし、若衆宿の生活はかなり厳しいもので、団規違反者には、激しい制裁が加えられたと言われる。若連中は、男子の青年団体であるが女子の団体として娘連中、娘仲間があって、合宿所として娘宿があったけれども、若連中、若衆宿程普及はしていなかった。

江戸時代の農村社会は、子弟に対して、教育らしい教育が行なわれていなかったので、若連中、若衆宿は唯一の教育機関として、注目すべきものであった。また、若連中はその活動を通して、神や祖先を祭る宗教的な機能、村の人たちを楽しませる娯楽的な機能、地域を外界と災害から守る保護防災的機能などを総合的に持った集団であった。

このように、青年団の生い立ちは、特定の目的のために、理論的に組織された集団と違って、自然発生的であり、地域の青年が参加して、親睦、教養、奉仕、祭礼など地域と結びついた幅広い活動をするところであった。一言で言うと、地域主義の団体であるといってよい。

その後、青年団は、明治、大正、昭和と時の流れに従い、地方の実情に従って、組織と運営のあり方に変遷はあったが、地域重点の性格は伝統的に受け継がれて、今日に至っている。青年団が、地域青年団と呼ばれたりする理由もここにある。

2.北海道開発のあらまし

明治以前

北海道はその昔、渡島(わたるしま)とも蝦夷(えぞ)とも呼ばれ、歴史上に名をとどめているのは、西暦658年とされているから、今からざっと1300年前にあたり、決して新しくはない。しかし、それから800年余りは、政治経済、文化のあらゆる面で、画期的な進歩は見られない。

15世紀中ごろになって、武田信広がすこぶる強い勢力を持っていたアイヌを平定した頃から、北海道の胎動が始まる。武田信広の五世の孫、松前慶広が松前藩を確立し豊臣秀吉から伊豆守に任じられた。

その200年の後、ロシアが樺太や千島を侵略し、蝦夷にも及ぼうとしていたので、蝦夷地は幕府直轄となり、その120余年後の1820年にいたって、幕府は再び松前藩に支配させた。やがて、安政元年(1854年)日露和親条約が結ばれ、箱館が開港されることになって、三転して、松前城の置かれた福山付近をのぞいて、蝦夷地は幕府の領地として取り戻されている。

時代は明治に移ってまもなく、榎本武揚を名主とする幕府脱走軍に占領されたが、官軍に収められてしまう。

目覚ましい発展

明治2年、天皇は蝦夷開拓について激励の詔書を出されて、中央の省と同列の開拓使(北海道庁に当たる)が設置されるに及んで、長く胎動のなかった本道がいよいよ産声を上げるに至った。当時の北海道の人口はわずか58,000人に過ぎなかったというから、北海道が本格的に開けたのは開拓使が設けられてからのことだということが出来る。

明治2年8月、37歳の若さで開拓使長官に任命された東久世通智禧(ひがしくぜみちとみ)は、勇んで函館に赴任し、蝦夷を北海道と改め、今の支庁に当たる、渡島、後志、石狩、胆振、日高、手塩、十勝、釧路、根室、北見、千島の11国と86郡を定めた。

その後、明治4年、札幌に開拓使庁が置かれ、札幌が行政の中心地となった。同じ年、次官黒田清隆はアメリカの農務局長ケプロンなど専門技師を招き、開拓の方針を定め、明治5年から14年に至る開拓使10カ年計画を立て、本道開発の歴史的な門出に至ったのである。この計画の終わった明治14年には、人口24万人を数え、明治5年には、2,800ヘクタールであった耕地が2万ヘクタールに達した他、小樽の手宮から幌内までの鉄道が開道した。

明治7年には、普段は開墾に従事し、有事の時は軍務に当たる、屯田兵制度が設けられ、現在の札幌市琴似町や山鼻、発寒などに入地した。

特に注目したいことは、開拓使の実力者として活躍した黒田清隆次官は、北海道開拓には、その基盤となる人間育成が重要であるとして、明治5年に開拓使仮学校を開いた他、欧米へ25名の留学生を派遣し、明治9年にはアメリカからクラークを招いて、北海道大学の前身である札幌農学校の創設に当たらせたことである。クラークの「青年よ大志あれ」と叫んだ島松の別離の言葉は有名である。

明治15年になり、開拓使10カ年計画の終わったのを契機として開拓使が廃止され、函館、札幌、根室の三県制度が生まれたが、開発事業が不振に陥ったので、明治19年に再び三県は統合され北海道庁が置かれた。北海道庁は移民の直接保護をやめて、間接助成に改め、道路の開削や民間企業を興すなどの方策がとられた。

明治30年になって、郡ごとに置かれていた郡役所を廃止して支庁が置かれ、34年にいたって、北海道10カ年計画が立てられ、10カ年に国費千万円余りを投入する計画であったが、日露戦争のために約半分の支出に過ぎない結果に終わっている。

明治42年、北海道拓殖15年計画、引き続いて昭和2年から20カ年にわたる第二期拓殖計画が実施されたが、この第1期および第2期拓殖計画によって、北海道は開拓地の域を脱することになったのである。その間、大正11年に札幌、小樽などに市制が実施され、翌12年戸長役場が無くなって町村制が敷かれた。

こうして、本道の各種産業や文化は著しく発展したが、第二次世界大戦後北海道は我が国の新天地として脚光を浴びることになり、国は、北海道開発庁を設けて国費事業を行なってきたが、北海道も第一期総合開発計画を、昭和27年から昭和37年までの間進めてきた。

そして、昭和38年から8カ年にわたる第二期総合開発計画が策定され、現在、教育の振興など住みよい豊かな北海道づくりの活動が、道民の力を結集して進められている。

3.北海道の青年団の歴史

青年団の誕生

明治以前の北海道にも、わずかな和人とアイヌ人が住んでいた人が住むところは、仲間の生活が有り祈りや歌や踊りがあったに違いない。しかし、それはどんな集まりであったのか、明らかでない。

北海道の青年団の歩みは、やはり明治に入ってから始まったといってよいのではないか。本道の中では、割合早く開けた上ノ国村では、稲荷講、八幡講など神社の行事に青年が協力し、神様に供える神饌を作ったり、ご神灯を守ったりする仕事を分担し、終わった日にはお酒(みき)をいただく宴会、いわゆる直会(なおらい)を楽しんだという。このような集まりが、次第に若衆組に発展したと考えられる。広島村でも明治20年ごろに、神社のお祭りの余興などをきっかけにして若連中が生まれている。

このような自然発生的な青年団の他に、あらかじめ目的を持って結成された青年団体もある。八雲の例がそれである。明治11年に八雲の徳川家開墾試験場へ旧尾張藩士が移住したが、開墾が苦しいので志気を高めるため、青年団体を組織して「知識を高め開墾に励み、仲間の中に怠けたり品行のよくないものが有る時は互いに戒めあう」という意味の規約を定めている。

この組織は、「八雲村開墾地青年党」といい、月一回例会を開き、討論会や演説会を行なったり、村内に困った人があると、それを助ける活動などを行なったと言われる。党費すなわち会費は月5銭であったというから、現在の金額にするとかなり高いものになる。

明治30年近くなると、移住者は多くなり本道の人口は第1図の様に50万人を超え、各地に部落が結成され、青年団体の結成も各地に見られるようになった。当別、東瀬棚、今金、芽室、沼田などが記録に明らかになっている。明治30年を過ぎると、音江、北見、大樹、下富良野、夕張など続々結成されている。

結成のきっかけは、移住前の出身地での経験によるもの、部落の祭典や道路修繕などが動機になったもの、夜学会など研修活動が発展したものなど様々であった。この頃の青年団体は、青年会とか若連中と呼び15歳から30歳ぐらいの青年で組織され、夜学会、社会奉仕、演劇、祭典の世話、演説会など多様な活動を行なっていた。しかし、年を経るに従い、青年会の活動は、行事や娯楽を中心にしたものから、青年の研修に重点を置く傾向が強くなってくる。たとえば、明治30年に結成された十勝芽室の美蔓青年社は、明治33年に美蔓青年会と名称を改めるとともに、規約の第2条に「本会員は礼儀を重んじ規律を守り知を研き業を励みもって社会の儀表たらんことを期すべし」として、はっきり研修と修養を目的としている。また、会員の中に「本会の名誉を棄損し……不品行の行為ありたるときは……本会議の確定を経て除名す」とした罰則まで設けられている。

しかし、このように進んだところばかりではなく、地域によっては産業(漁業)がふるわず村の風紀が乱れ、「祭礼の時は戸主三円若者二円の拠金をして、酒を飲み田舎周りの芸子を呼んで底抜け騒ぎ」をしたり「畑の除草共同作業の折、弁当持ちで集まり、一日三回の休憩時には、いたどりの茂みの中で博打をし、不良青年、堕落少女の養成所」であったといわれ、心ある人たちは、これを正すために、青年会などの組織の養成に勤めたという。正に青少年対策明治版ということが出来よう。

青年団の充実発展

時代は進み、明治も末期になって、自発的自然発生的な青年団体が政府に着目され、育成や指導の方策がとられるようになる。明治38年9月、政府は地方長官あてに「地方青年団向上発達に関する件」という公式文書を出し、模範となる青年会の調査を依頼している。

さらに大正4年9月、内務・文部両大臣から、「青年団体は青年の修養の機関であり、その発展は地方の開発に大きく影響するので地方当局者は地域の実情に即して適切な指導を行なうべきである」という意味の訓令を出し、政府の青年団体に対する期待を明らかにしている。また同じ日に、内務・文部両次官名で「青年団体の設置に関する標準」が出され、(1)青年団体は義務教育終了後、20歳以下のもので組織し、(2)市町村単位に組織するが、事情によっては部落や小学校通学区でもよい。(3)省学校長や市町村長などを指導者とする、。(4)活動に要する経費は団員の勤労収入で充てるなどの標準を示しているが、後になって、青年団体の自主的な運営を強調するとともに年齢についても25歳以下でもよいと改めている。

北海道庁は、政府の訓令や通達を受けて、支庁や区長に通達を出す他、青年団規程準則などをつくって、道の教育行政を通じて青年団の育成に当たったので、大正4年以降続々と新しい青年団が生まれた。また、すでに結成されている地域でも再編成が進み、市町村ごとに連合会が組織されるようになり、大正6年3月には、全道の青年団体は1,425団体、約82,000人の団員を数えるに至った。

活動内容は、夜学会、講話会、体育講習、図書購読などが多く、遠足とか消防という内容も見られ、会費、共同作業収入、財産収入で維持されていた。後志の狩太村曽我青年団やニセコ青年会では、当時としては斬新的な詰め襟服の制服を着用していたということである。

このように全道各地に青年団が普及すると、当然全道的な集会が持たれるようになる。大正4年11月、現在の北海道新聞社の前身である北海タイムス社が主催して、2,000人以上の青年の参加の元に、全道青年連合大会が札幌で開かれ、講演を聞き、宣言を行なっている。翌大正5年にも同じ北海タイムス社の主催で大会が持たれ、中央創成小学校で武術大会を催す他、時計台で演説会を聴いたという。これらの大会は、町村連合会、支庁連合結成の動きと相まって、大正10年にいたって北海道聯合青年団の結成を生むことになる。初代団長は北海道長官宮尾尋治、副団長には内務部長と北海道青年協会の阿部宇之八が就任し、事務局は道庁の中に置かれた。その後、大正13年になって全国的な組織として全日本聯合青年団が結成された。

この間に、男子青年団体に比べてかなり遅れて、明治末期から大正初期にかけて、女子青年の団体として処女会が発生し、大正初期には少年団の歩みが始まっている。

また、北海道庁は大正11年に青年団の設置と事業奨励のために「青年団補助規定」を定めて青年団の育成に当たるようになるが、民間でも、札幌区長(今の市長に当たる)であった阿部宇之八が大正8年区長退職後、北海道青年協会を設立し、私費を投じて講演行脚に努めたり、雑誌「北海青年」を発刊したり、青年団陸上競技大会を開くなど、活発な活動を行なっている。

昭和の青年団

昭和に入って、時代の激しい移り変わりは青年団の活動方針にも大きな影響を与えずには置かない。

昭和3年、大日本聯合青年団は、青年団綱領を定め、郷土愛、心身の鍛練、自主性、正義、忠孝、世界平和を目標とした。

平成12年支那事変が始まるとともに、我が国は全体主義を指向するようになり、青年団体を一丸として挙国体制を敷くために、昭和14年大日本聯合青年団は、大日本青年団に改称し、さらに昭和16年になって、大日本聯合女子青年団に大日本少年団聯盟を合体して、大日本青少年団が組織される。

北海道でも昭和15年、北海道聯合青年団は北海道青年団に改められ、16年には青年団、女子青年団、少年団が統合し北海道青少年団が結成され、国民学校初等科(現在の小学校)三年以上の児童と青年は全員青少年団に組織され、心身鍛練、団体訓練、勤労奉仕が活動の中心となった。

4.新しい青年団

戦後の青年団

昭和20年8月25日、長い戦いは終わった。大日本青少年団は解散させられ、児童、生徒は学校へ戻り、青年たちは戦地や工場から郷土に帰った。

その年の9月、文部省はいち早く、「新生青年団体は郷土愛に基づく社会生活訓練の機関であり、新日本の建設に努め、正解平和に貢献する資質を養う民間団体である。」とする「新生青少年団体設置要領」を発表した。時を移さず北海道庁は青年団幹部養成講習会を、江別市野幌にあった野幌修練道場において、20回に渡って開いた。

このような役所の動きはそれとして、団体を失った青年たちは、互いに仲間を求め自主的にグループを作り上げたことは、江戸時代も昭和の戦後も替わりはなかった。21年4月、白石村連合青年団が結成され、機関紙「建設」を発行、翌22年3月には、17の市と支庁の代表の参加によって、北海道青年団体協議会の結成をみるなど、青年団の組織化は目覚ましい勢いで進んだ。街角には闇市が立ち並び、男も女も平気で汽車の窓から乗り降りした荒廃した世情の中にあって、多くの青年たちが自らの識見を高め、郷土の再興の為に仲間と手を組んだのである。

こうして、生まれ変わった北海道青年団体協議会は早速幹部講習会を開き、全道青年団陸上競技会を開催する他、北海青年の歌を制定するなど、目覚ましい活動をしている。北海青年の歌の入選作の一つである「嵐は吹くとも」は今なお北海道の青年諸君に愛唱されている。

北海道青年団体協議会の結成の翌年昭和25年には全道青年団大会を起こしている。明くる年は、青年学級開設促進に取り組むいっぽう、北海道青年会館建設運動に着手し、新しい青年年の誕生期とも言うべき第一の段階は終わっている。

成長期、発展期

昭和26,7年ごろから数年間は、いわば成長期であり、各種の活動が活発の度を加えた時期である。

昭和30年ごろから、我が国は経済の高度成長に向かい始め第一次産業の近代化の課題に当面し、人口の都市集中の兆しが見えてくる。昭和32年から道青協はその運動方針として青年団組織の強化、青年の生活の向上、地域課題解決、青年団連携交流を掲げて、社会変貌に対応しながら活動を発展させようとした発展期である。

昭和36年には北海道青少年団体連絡協議会の設立をみるなどの発展の方向をとりながらも、急激な社会変容に対処して、北海道の青年団体は昭和41年ころから新しい局面を迎えるに至った。それは都市に働く青年の組織化と農漁村における活動と運営の近代化の課題である。まことに大きな課題であり、青年団は再編成期に入ったということが出来よう。

第2章 青年団の性格と目的

1.青年団の性格

青年団の基本的な性格は、次のように表現して誤りはないと考える。

青年団(または青年会。以下についても同じ。)は、何らかの点で地域と関係を持ち、青年の仲間を求める意識を基礎にして、自主的な活動を行なう集団である。この青年団の地域性、青年の社会意識、自主性、集団性という四つの要素について考えてみる。

地域性

青年団は歴史的に部落や村の一定の地域の青年が自然発生的に結団して、地域と密着した活動によって、地域を守り地域を発展させ、その過程を通して、青年の人間形成を行なってきた。青年団を組織化する機縁も、活動そのものも地域社会と直結してきた。

このような地域主義青年団の成立基盤は、かつての農村社会であった。地域全体が共同体としての性格を持ち、そこに住む人の生活には共通性が多く、人口の移動はほとんどなく、伝統的な習慣を守る性格の強い当時の農村社会において、地域性の濃い青年団は高い存在意義を持っていた。

ところが、近年地域社会は変わった。都市社会が急激に発達する一方、農村社会へも都市の生活様式がどんどん広まってきた。向こう三軒両隣りの「地域共同体」から、金の切れ目が縁の切れ目の「利益集団」的色彩が強くなり、人々の生活の仕方が多様になり、個人主義者の寄り合い所帯のような性格を持つようになってきた。

青年団の基盤としての地域社会が、大きく変わったのであるから、青年団の組織や運営のあり方に変化があるのは、自然の成り行きである。それでは、いったい、今日の青年団の地域性とは何なのだろうか。

青年団をめぐって「地縁で結ばれた網羅主義の青年団はもう古い。これからは、サークル、グループの時代だ。」という声を聞くようになったが、果たして青年団は古いのであろうか。

町内、部落、地区、市町村など、地域社会と青年団の関係は、青年団を組織したり、組織に加入する場合の、組織・参加における地域性と、活動を進める上での地域との結びつき、活動の地域性の二つの側面がある。

組織・参加の地域性

集団には大まかに言って、二つのタイプがある。

一つは、血の繋がり、土地の縁で結ばれる集団である。家族や部落会、町内会がこれに当たる。人間は、生まれる家族や、生まれる町を自分で選ぶことは出来ない。したがって血縁、地縁の集団は運命的であり、同時にその生活環境は、人間の性格形成に大きな影響を及ぼすので、基礎的集団と呼ばれている。これに対して、学校や職場などのように、特定の機能を果たす為に作られた集団は機能集団と呼ばれる。また、地域共同体(コミュニテイ)に対して、コミュニテイの中に特定の機能を果たす目的で意図的に作られる集団を、結社(アソシェーション)と呼ぶこともある。

ところで、昔の家族とか青年団は色々な機能を果たしていた。生活全体に渡る機能を持っていたので、『全体的集団』であったという人がいる。しかし、社会の進歩に従って、宗教的な機能は神社やお寺へ移り、知識教育の仕事は学校へ、娯楽的機能は映画館やパチンコ店へ、防災警察的機能は消防署警察署へ移ってしまった。基礎的集団、全体的集団の機能が、専門の機能集団に分担されるようになったのである。

その結果、昔は家庭や部落だけで生活のすべてを充足することが出来たが、現代では、家庭、通勤電車、職場、食堂、労働組合、青年会、パチンコ店等々を歩かなければ、一日の生活が満たされなくなった。集団を渡り歩く時代になったのである。今後、ますます機能集団の数は増え、社会で重要な役割を果たすようになるであろう。

「やっぱり地縁は古い。」と早まった結論を出さないでいただきたい。昔の部落では、近所付き合いが、生活の全面で行われたので、ともすると他人の生活に関心を持ちすぎ、干渉しがちになるなどの悪い面はあった。反面、共同体として協力しあい助けあうというよい面もあったわけで、一概に農村は封建的で古いと決めつけるのは誤りである。

個人の自由を尊重しなければならないことは言うまでもない。しかし、都市生活に見られる「隣は何をする人ぞ。」という、他と没交渉の生活は孤独で不安なものである。そこで、地域の共同体が見直され「地域づくり」「まちづくり」という名のもとに農村都市部を問わず、新しい立場から地域組織の再編成が進められるようになった。アメリカでも、コミュニテイ・オーガニゼーションといって、住民自らが住民の生活を守り、地域の福祉を高めようとして、5-60年も前から地域の組織化が行われている。

地縁は古くて、なお新しいものなのである。同じ地域の青年が、顔見知りであること、共同の話題や立場をもっていること、あるいは共同の力で地域課題を解決しようとすることをきっかけにして、青年団体を組織したり、団体に加入することは、時代が新たに要求する問題でもある。

青年団は自信を持って、地域の仲間に呼びかけよう。特に、第2図のように、最近急激に増加している年に働く青年に、積極的に手を差し伸べるべきである。

活動における地域性

人間は地域と無縁ではあり得なかった。団体も同じである。たとえば、機能集団であっても、市町村なり地区なりの一定の地理的範囲に居住する人が集団化し、地域共通のコミュニケーションをもったり、地域の施設を利用して、活動を行なうのであるから、地域を基盤にしていることに違いはない。

問題は、「何のために集まり、どんな活動をするか」にある。従来、青年団は、特定の目的に偏らず、地域に奉仕し、地域を発展させる活動を重視してきた。しかし、青年団現状はどうなっているのであろうか。第3図で、新篠津村武田青年団行事一覧によって、純農村地域の例を見てみよう。祭典、会館美化運動など奉仕活動も見られるが、青年父兄の集いのように、地域課題解決の色彩の強い活動や、農事視察、研修旅行、料理講習などの活動学習など、かなり目的的な活動を取り入れていることがわかる。

都市地域の青年団はいっそうこの傾向が強い。第4図でもわかるように必ずしも地域との結びつきは明らかではないが、かなり地域から開放されて、青年の欲求、興味に基づいた活動が見られ、三ないし四つの種目を複合的に取り上げている。

こうしてみると、青年団の活動は、地域との関連をもちつつも、それを第一義とすることなく、幅広い目的的な活動を行なう傾向にあるといえる。多目的な機能集団化であり、強いて名付ければ、地縁的機能集団とでも言うことが出来よう。

だからといって、青年団の、地域と結びついた活動を全く否定するつもりはない。地域連帯性、地域課題解決運動は住みよい地域を作る上にますます重要な事柄であり、これからも重視すべきことに変わりはない。反省すべき点は、団員の欲求、興味などを無視して、先輩がやっていたから、部落から要望があったから、何となく手をつけると言った、他律的な活動の進め方にあったのではないか。

開放性、解放性

青年団の組織・参加の地域性は、地域の青年であれば誰でも参加できる体質につながる。地域の青年であれば、職業、境遇、学歴、宗教、思想、性別を問わず誰でも参加できるのである。また、特定の目的のために作られていないので、同好のものでなければ加入できないということもない。要するに、誰でも入れる団体なのである。

色々な集団を、集団に加入するきっかけで類別すると、
(1)運命的、強制的な集団
 家族、学校、民族のように運命的なもの、ユニオンショップ制の労働組合のように強制的なもの、網羅性の強い地縁集団のように義理で加入するもの。
(2)自発的な集団
 青年団、4Hクラブのように加入、脱退の自由なもの。
(3)中間的な集団
 非行集団のように加入は自由だが脱退しにくいもの、職場のように脱退は自由だが加入には、資格、能力などの条件が必要なもの。
に分けられる。

青年団は、加入も脱退も自由な団体である。数多い団員の中には、すすめられて断れずに義理で加入するものもあるだろうが、活動の参加まで拘束されることはないと思われるから、やはり自由な団体である。

特定の立場の人しか参加できない閉鎖的な団体に対して、青年団は開放的な集団であり、いつでも加入、脱退できる開放的な団体である。

仲間を求める意義

青年団体は青年の特質と切り離して考えることは出来ない。

青年期は心身の成長の上でも、社会的な取扱の上でも、子どもから大人へ移行する、半大人半子どものどちらともつかない時期である。一般に文明が進歩すると、大人の世界は高度に複雑になるので、社会や家庭で一人前の大人として生活するための準備期間、すなわち青年期が長くなる傾向がある。

青年期は、三期に分けて考えられ、大まかに言って、中学時代を青年前期、高校時代は青年中期、その上は24〜5歳までを青年後期とされている。

青年前期に入ると、身体発育が盛んになり、身体的には大人の仲間入りをする。しかし、精神的な発達は、ずっと遅れて、自分にも自信がなく外にも反抗する時期(青年前期)、自己を社会的な立場から考える時期(中期)、自分と社会を調和できる時期(後期)というように、いくつかの過程を経て一人前になる。

このように、青年期は時期によって特徴的であるが、全期間を通して、社会に対する意識が非常に発達することも、その特質である。青年期に入ると行動範囲が広まり、生活内容は多彩となり、他人とのつきあいも増える。それとともに、家族にもたれかかった生活から、自分だけの独立した生活を持とうとし、同じ年代の仲間に特別な親しみを持つようになる。異性に対して関心を持つようになり、異性との交際を望む気持ちが強くなる。また、目上の人や友人から認められ、異性の目にとめられると大きな喜びを感ずる時期でもある。

こうした仲間を求める気持ちとともに、団体のメンバーとしての意識(帰属意識という)が高まってきて、自分の所属している団体の存在価値や評判が気になるようになる。帰属意識や団体に対する関心が高まるのである。

子どもの世界から抜け出したが、成人としては扱われず、また大人の生活になじめないでいる青年が、この複雑な社会に1人ぽっちで突き放され、孤独な暮らしを送るとすれば、その生活はいつも緊張と不安につきまとわれたものになろう。こんな時、心置きなく語り合える友人があって、悩みを打ち明けあい、互いに理解し励ますことが出来れば、青年たちは大きな自信と勇気を体得するに違いない。青年にとって友人は大切な存在である。

第6図がそれを証明している。勤労青年の相談相手として友人が重要な役割を果たしている。友人の関係が、更に発展してグループの活動に成長すれば、青年の心のよりどころとして、いっそう大きな力を発揮することが出来る。グループの中で、意見を交換し、悲喜を分けあい、仲間に認められる喜びを味わうのは、勤労青年にとってはかけがえのない魅力になるに違いない。

それにしても、第6図が示すように、相談する相手のいない13%の勤労青年は、どんな気持ちで日々を送っているのであろうか。青年団は、この人たちに同じ青年として、手を差し伸べてあげることは出来ないものであろうか。

自主性

日本青年団協議会は活動家の手引き第二集で、「青年団は(1)青年の集団である。(2)地域性を持つ。(3)大衆組織である。」と定義し、「青年の集団」という言葉で自主性を表現している。また、社会教育法の趣旨から考えても、(後掲)青年団は青年の「自主的な集団」としての性格は疑う余地がない。青年団関係者は、「主体性」という言葉でこの自主性を表現している。

青年団の自主性は、外に対するものと、団体内部におけるものに分けて考えることが出来る。

外に対する自主性というのは、特定の政党、宗派、あるいは公の支配を受けることなく、のびのびと独立した活動を行なうことを指している。個々の団員が、特定の政党を支持したり、一宗一派を信仰するのは、あくまでも自由であり、思想、宗教の自由は何人に対しても憲法が保障している。同時に「個人の自由」は、一枚の紙の表と裏のように、他人の自由を侵してはならないことに結びついている。したがって、はじめから政党活動や宗教活動を目的とする団体と違って、様々な考えや信仰を持ったものの集団である青年団にとっては、他人の思想信教の自由を尊重する立場から、一党一派の干渉を受けることは許されない。とりわけ、青年団には、政治問題にはまだ関心を持つに至っていない未成年の団員のいることを考えると、政治的教養を養うことが大切であり、将来の選択の自由を拘束することのないように、慎重な態度を持たなければならない。すなわち、非政党性、非宗教性の性格を持っているといえる。

社会教育法では、「社会教育関係団体とは、(中略)公の支配に属しない団体で社会教育に関する事業を行なうことを主なる目的とするものを言う。」と定めている。ほとんどの青年団は社会教育関係団体の定義に当てはまるものと考えられるが、この法律で同時に「国および地方公共団体(どうとか市町村)は、いかなる方法によっても、不当に統制的支配を及ぼし、またはその事業に干渉を加えてはならない」として、行政機関が社会教育団体を支配、干渉することを禁止している。法律によって公の支配からの自主性が確立されているのが理解できる。

青年団の団体ないの自主性に話を進めよう。

青年団ばかりでなく、一般的に団体活動の本質は、メンバーの相互関係と、メンバーの合意によって目的を決定し、目的達成の活動を行なうことにある。団体はメンバー全員による運営が生命線である。

市町村教育委員会に身を任せておぶさっている団体はないだろうか、あるいは会長や一部の幹部だけで運営されている団体はないだろうか。運営上、自主性を失ってしまった青年団は、団体の抜け殻であって、生きている団体とは言えない。団員による自主的な運営をきちんと堅持しておきたいものである。

青年団が、外敵内的に自主性を保つためには、その運営に要する経費を自主財源で賄うのが原則である。団員の会費によって着実に運営される団体も少なくないが、反面で、経費の大半を公費補助金などに頼って、補助が打ち切られると活動が止まってしまいそうな団体も見られる。

最近、青少年の健全育成の面から、一般に青少年団体に対する関心が高まり、助成策が各方面からとられるようになったが、これに青年団体が便乗した行政依存の傾向も見受けられる。

補助金はそれとして、あくまでも自分たちの会費で、自分たちが活動する体制を確立すべきである。会費を払うことによって、団員は団活動に関心を持ち、団に帰属意識を持つようになるもので、会費は経費調達の目的ばかりでなく、団体の結びつきを固める役割を持つことも忘れてはならない。

集団性

二人以上の人が、互いに知り合いになり、集会を持ったり、言葉や気持ちのやり取りを交わすようになると、「集団」と呼ばれる。火事見物の弥次馬(やじうま)や、偶然に乗り合わせた汽車の乗客は、人の集まりに違いないが、互いに知り合いでも、相互作用もないから、集団とは言わない。このような、非組織的な偶発的に集まった人たちは、群衆といい集団とは区別される。

集団には、ただの人の集まりとは違って、集団全体としての性格が出てくるし、メンバーの間に色々な力が働くものである。集団は1+1=2+αであり、2はメンバーがもともと持っていた力であるが、αは集団が創造する力である。このαは専門的な立場から色々な説明があるが、ここでは分かりやすく、集団力と呼んでおく。集団は、生き物のように、集団力を生み出す働きをするのである。

青年団は、集団としての性格を持っているのであるが、集団力はどうして出来上がるか、それを大きくするにはどうすればよいか、第4章で明らかにする。

ところで、集団としての青年団には様々な機能がある。それを分類整理すると、第7図のようになる。(1)団体運営の機能とは、団を維持運営するための規約を定めたり、役員の選出、目的と活動の決定、予算経理、会議の運営などを指している。メンバーが緊張感を解きほぐしたり、むしゃくしゃした気持ちを和らげたりする機能は、(2)緊張解放の機能であり、レクリェーション活動とか、雑談などがその役割を果たしている。

青年が、仲間との生活で満たそうとする、最も初期のものは、自分自身を解放してくつろぎたいという欲求である。この欲求は互いによく知りあった青年団のような、親密な人間関係の中で、満たされるものであり、緊張解放の機能は、青年団の重要な機能の一つである。

青年団は、奉仕活動、地域課題解決活動、新生活運動、交通安全運動、明るく正しい選挙運動などの活動を通して社会と関係を持ち、社会に貢献している。これは、青年団の社会的な機能である。

このほかに、(3)(5)の教育機能を加えて、青年団の機能を五つに分けたのであるが、たとえばフォークダンスは緊張解放の機能を果たし、例会は団体運営機能を果たすというように、一つの活動が一つの機能を作用するというものではない。たいていは、一つの活動の中に、いくつもの機能が混在している。特に教育的な機能は、青年団の活動のあらゆる場面で行われている。

教育的機能

我々は、家庭、遊び仲間、学校、職場など色々なところで、知識、技術を身に付け、物の考え方、振舞のし方などを身に付けてきた。教育を受けたのである。

教育は、学校のように教師から教えられるものばかりでなく、読書や音楽によって教養を身に付ける、他人の仕事をみてそのこつを飲み込むといった、何らかの媒体から学び取る形がある。また、朱に交われば赤くなるのたとえのように、人間同士のつきあいの中で自分を作り上げるものもある。いずれも教育である。

だから、教育は日常生活の中で、広い範囲で、多様な場面を持って進められていることがわかる。

青年団の重要な機能として、教育的な機能があげられる。その一つは、青年団活動の大きな割合を占めている、学習活動(青年団が実施する青年学級を含む)、体育活動、文化、芸術活動などである。これらの活動は知識、技術、身心発達、情操のかん養を目的としたそのものずばりの教育活動である。

このように、はじめから明確な意図によって行なわれる教育は意図的教育と呼ばれる。青年団の教育機能は、この意図的教育だけではない。むしろ、意図的に行われる教育活動は氷山の一角であって、海水の中に隠れている目に見えない部分のほうが、むしろ大きいのかもしれない。

第8図は、空知郡栗沢町若地青年団員29名に対する「あなたが青年団に入ってよかったと思うことは何ですか」というアンケートの回答である。青年団の活動を通して、半数に近い43.4%の青年が「発表力」が出来たことを自覚し、「仲間と心置きなく話し合える」「仲間が出来た」として仲間との生活の喜びを意識しているものが、合わせて53.3%になっている。その他、何かを成し遂げた時の成就感と自信を意識するもの(20%)、学習活動、スポーツ活動の良さを認めたもの(56.6%)、仕事の分担によって責任感を体得したもの(6.6%)、会の運営の苦労を通して指導能力を得たもの(6.6%)、はっきりしたものではないが何となく青年団に気持ちが向いているもの(16.6%)が認められる。団員は、青年団の活動を通して、発表力を身に付け、社会意識を伸ばすほか、活動の成就感を味わい自信を持ち、責任感と指導能力を形成していることを、自ら自覚している。これらの能力、態度を培う働きは、教育にほかならないのであって、青年団が持っている教育機能の隠れた一面である(潜在的機能)

しかも、この教育機能は、はじめから団員を教育しようという意図の元に行なわれる場合は少なく、青年団の日常活動や仲間とのつきあいの中で、知らず知らずに行われ、気がついてみたら、「自分でわかるくらい成長している」のである。この教育機能は、先に述べた意図的教育に対し、無意図の教育ということが出来る。したがって、無意図の教育は、青年団におけるあらゆる活動と不可分の関係を持って進められている。この無意図の教育は、団員に自覚されるものもあるし、意識されない部面も少なくなかろう。明朗な性格を作る、情緒安定感を培う、協調や礼儀の習慣を作る、余暇善用の態度を養うなど、団員はもちろん、身近な指導者もうっかりしていると気づかないでしまうものもある。

こう考えてくると、青年団における無意図的教育の機能が人間形成の上に及ぼす力は、無視することが出来ないものであり、青年団の機能を論ずる場合、忘れてはならないところである。

2.青年団の目的

青年団は何をすればよいのか

青年団体指導者養成講習などの機会に、バズ・セッションの手法で、青年団体のリーダーが当面している問題点を聞くと、単位団体のリーダーが持っている悩みとして出現数の多いのは「出席率が低い」「集会などの時間が守られない」「団員の年齢差が大きい」「組織率が低い」「魅力ある活動はどうすればよいか」「職業が雑多な青年団の運営方針」「ダンスには集まるがその他はどうも」「男女会員のアンバランス」など多岐にわたっている。ときおり、「何のために、何をやればよいのかわからない」といった具合の、団体にとって、根本的な問題にぶつかることもある。

青年団のリーダーが持っているこうした悩みは、そのまま青年団が当面している課題を端的に表しているようである。これらの課題はいずれも、急速な社会変貌の影響によって派生したもので、これに対処して、青年団は運営はもちろん、組織のあり方についても改善を図る必要に迫られていることがわかる。

それにしても、青年団のリーダーが「何のために、何をすればよいのか」の答えを他に求めているのは、毒舌的に言えば、汽車に乗ってから自分の行き先を車掌に聞くようなものではなかろうか。しかし、このように決めつけては、青年団のリーダー諸君に気の毒であり、青年団で活躍しているリーダーでさえ、自分の団体の方向性を見失うほど、時代の流れは急速であるという方が正しいかもしれない。

それだけに、これからの青年団活動は、伝統の上にぬくぬくとしていることは許されない。環境の変化に、即時的にダイナミクに即応できる、機動性を持つことが必要である。

目的と目標

日本青年団協議会の綱領は
1,私達は身心を修練し、よりよき個人の完成に努めます。
1,私達は友愛と共励を信条として団結します。
1,私達は住みよい郷土社会の建設に努めます。
1,私達は人類愛と正義を以て世界平和に努めます。
と定められている。

青年団は、個人の完成、郷土建設、成果平和と団結を究極の目的としていることがわかる。一応、青年団活動の目指すところ、方向が規定されている。数多くの単位団体の規約をみても、「友愛を深め」「教養を高め」「地域社会の発展に寄与する」ことが定められてあり、その内容において、日青協綱領と大きな相違は見られない。

もちろん、青年団のリーダーになるくらいに人たちは、この程度のことは十分承知しているに違いない。知りたいのは、このような抽象的などんなところにも当てはまる一般的な目的ではなく、この目的に到達するための具体的な目標を知りたいということに違いない。

学校の教育を例にとると、教育基本法第17条に「小学校は心身の発達に応じて、初等普通教育を施すことを目的とする」と小学校教育の一般的な到達点としての目標を掲げ、次の条で具体的に「次の目標の達成に努めなければならない。1,学校内外の社会生活の経験に基づき、人間相互の関係について、正しい理解と協同、自主及び自立の精神を養うこと…8,生活を明るく豊かにする音楽、美術、文芸等について、基礎的な理解と技能を養うこと」と定めて、どのような資質や能力を養うのか明らかにしている。この目標によって学校では社会・国語…音楽などの科目を教育課程として編成する。

青年団には、青年団の一般的な目的に習って、「スポーツ活動を通して、健やかな心身を作り、余暇の善用に努める(恵庭町産業青年団の活動を参照して作成)」とか「青年学級における茶道の学習を充実し、家庭における実習を通して、農村文化を高める能力を養う(伊達町東紋籠青年団の活動を参照して作成)」等々の具体的な目標があってよいのでないか。


以降、作成中です。